チョコベリーの暮らしをちょっと豊かにするブログ

3児育児中のワーママです。ライフハック、子育てなど暮らしを豊かにするヒントや気づきを綴っています。

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津田梅子さんの生涯がすごい!わずか6歳で10年留学。その経緯と女性の自立への思いとは?

津田梅子さんをご存じでしょうか?現在の津田塾大学の創始者です。

 

私は、女子大学を設立した方なんだよなーという印象しか持っていませんでした。しかし、子どもの夏休みをきっかけに、図書館で津田梅子さんの学習歴史漫画を借り、読んでみてびっくり!ただ大学を設立したわけではありません。そこに至るまで、様々なドラマがあったのです。

 

出典は漫画なので、説明が簡略化されているところがあるかもしれません。それでも、漫画だからこそ読みやすく、もっと津田梅子さんのことを知りたくなりました。津田梅子さんに関する本を読んでみようと思っているほどです。

 

それだけ感銘を受けた津田梅子さんの生涯。学びが多い人生だったので、興味深かった点を紹介します。当時では大変めずらしい女子教育の学校を設立された津田梅子さんは、どんな生涯だったのか。見ていきましょう!

  

 

わずか6歳で留学。その期間は、なんと10年!

 

津田梅子さんは、1864年に父・津田仙と母・初子の次女として生まれました。黒船来航(ペリーが黒船でやってきたことね)をきっかけとして仙は英語を学び、幕臣として外国奉行の通訳をしていました。仙は29歳で外交使節に随行して、アメリカを訪れます。そこで目にしたのは、自由と繁栄!日本とはまったく異なる暮らしがありました。

 

お父さんが英語を学び、話せていたのがすごい!

 

1867年、女子教育にもっと力を入れるべきだと考えていた開拓次官、黒田清隆(のちの第2代内閣総理大臣)は、女子留学生をアメリカへ派遣することを決めます。それに仙は梅子を応募。梅子の派遣が決定します。年齢はわずか6歳。期間は、なんと10年です!

 

たった6歳で10年も親元を離れるなんて・・・

 

普通に考えれば、親としてはすごく寂しいことです。それでも仙が梅子をアメリカに留学させることを決めたのは、自分自身がその目でアメリカを見て、体感していたからこそ、留学の意義を実感していたからだろうなあと思いました。

 

梅子自身はどうだったのでしょうか。6歳だと、まだまだ親が恋しい時期だと思います。まんがでは、一緒にアメリカに渡った4人の女性と、国のために頑張ろうと勇敢に描かれていますが、最初はとても不安だったのではとも思いました。

 

女性教育のための学校を設立しようと考えた梅子の思い

 

梅子はアメリカに到着すると、ランマン夫妻の家で暮らすことになりました。ランマン氏はとても尊敬される人で、梅子が帰国後もランマン夫人と手紙のやりとりをずっと続けるほど慕っていたようです。

 

温かい家庭でよかった!

 

日本女子5名がアメリカにわたりましたが、2名が体調不良を理由に帰国。残ったのは、山川捨松(のちの大山捨松)、永井しげ(のちの瓜生繁子)の2名。この2名とは親しく過ごしていました。梅子は、学校では、英語だけでなく、ラテン語、数学、物理学、天文学、フランス語で優秀な成績を収めたそうです。本当に聡明な方だったのだなと思います。

 

1882年、留学を1年延長して、梅子は日本に帰国します。アメリカで学んだことを生かそう!そう思っていたのに、日本に梅子たちの仕事はまったく用意されていなかったのです・・・!

 

なんてこと!

 

アメリカ留学の際に同行していた伊藤博文(のちの初代内閣総理大臣)に再会し、伊藤の家で娘に英語やピアノを教える家庭教師となり、住み込みで働くことになりました。初代内閣総理大臣となる人の元で働くなんて、すごい・・・!

 

でも、これだけ優秀な人物を雇うことがなかったように、日本は男女の差が激しい時代でした。好きな人と結婚できない。勉強も仕事もできない。日本の女性には自由がない。男性に比べて、あまりに地位が低い。この状況をなんとかしたいと、梅子はランマン氏に手紙を送っています。

 

アメリカで学んできた梅子にとって、日本の女性の地位があまりに低いことに憤りを感じ、なんとかしたいと思っていたことがわかります。この思いが、女性の教育のための学校を作る事につながったのだとよくわかります。

 

学校設立の同志を見つけたきっかけは、医学書を持ち帰った父

 

梅子は、伊藤氏の住み込み家庭教師のあと、教職に立ちますが、また学びを得るために3年のアメリカ留学をします。

 

再留学!

 

そこで、リベラルアーツという教養教育の言葉を知ります。リベラルアーツとは、人間を束縛から解放するための知識や、生きるための力を身につけるための手法のことです。こうした教養教育こそ、日本の女性に必要なことだと梅子は思ったようです。

 

梅子は、ブリンマー大学で生物学を専攻します。トーマス・ハント・モーガン博士(のちのノーベル生理学・医学賞)のもとで研究し、共同研究として論文が掲載されました。梅子は、欧米の学術雑誌に論文が掲載された初の日本人女性なのです!

 

再留学中に、帰国後の女性教育のための学校設立に貢献することになるアナ・ハーツホン氏に出会います。梅子の父、仙が日本に持ち帰った医学書が、アナの父が書いたものだったことからつながりができたとまんがではありました。これにはびっくり!だって、なかなか海外の医学書を持ち帰るなんてことありませんよね!?

 

梅子は帰国後、「女子英学塾」を設立します。その後、病に倒れ、亡くなってしまいます。学校の存続も危ぶまれる中、アナがその遺志を継ぎ、奔走したことで、女性教育のための学校が存続し、現在の「津田塾大学」になりました。梅子の父、仙が海外の医学書を持ち帰ることがなかったら、アナとのつながりもなかったかもしれません。そう思うと、何がその後につながるかわからないものだなとも思いました。

 

まだまだある日本の男女格差。梅子の遺志を継いでいこう!

 

梅子は、ヘレン・ケラーやナイチンゲールにもお会いしています。こんな著名な方々にもお会いしていたなんて、知らなかった!英語が堪能だからこそ、叶えられたことなのではと思いました。

 

女性を自由にしたい。生まれた家や結婚相手によって、人生が決まってしまう。そんな状況を変えるために、学校を作りたい。そんな思いがあったからこそ、梅子は政府の力を借りずに学校を作ろうとします。政府の力を借りると、国を強くするための学校になってしまうからです。

 

政府の力を借りずに学校を作る事は、とても大変なことでした。そんな中、少しでも多くの方の協力を得ようと梅子は奔走します。そして、学校設立を達成することができました。本当にすごい!

 

梅子のように、こうして尽力してくださった方々のおかげで、今の日本があるのだなと思います。それと同時に、まだまだ男女平等とはいえない部分もあるのが日本の現状です。男女格差を測るジェンダーギャップ指数は、156か国中120位(2021年)。先進国の中で最低レベルです。今後の日本の未来のためにも、変えていかなければいけないことだと感じます。

 

津田梅子さんの生涯から学んだのは、親も新しい知見を学び続ける必要があるということです。父、仙が英語を学んでいなければ、梅子がわずか6歳で10年も留学することはなかったでしょう。怖れずに、新しい世界を見ることがとても大事だなと思いました。

 

また、女性のために尽力した梅子の力もあり、今の女性活躍がありますが、ジェンダーギャップ指数からわかるように、日本はまだまだ。自分にできることは何か考えながら、行動していきたいですね!

 

 

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